昭和四十五年六月二日 夜の御理解
お道の信心は、どこまでも道理に合うた信心とおっしゃるが、道理というても人間の作った道理といったようなものではなくて、どこまでも天地の道理である。天地の道理に合うた信心である。ですから段々信心を進めてまいりますと、人間の目から見ると道理にちょっと合わないような事がある。あまりに理屈に合いすぎたり、それがあまりに常識的であったり、いわばやはり人間並の常識的なおかげでしか、いや常識的なおかげですら受けられんかもしれませんね、信心では。信心はどこまでも、いわゆる神様の御心に添い、神様のお働きによっておかげを受けるのであるから、どこまでも神様の心に叶う、天地の道理に叶う生き方でなければいけない。
今日は光昭が、ここのところ毎日、日参をしてくれる。まあ私の【 】を兼ねて自分も修行のつもりでしょう。毎日お参りをさせて頂いております。今日朝、今お初穂整理の御用を久富さんと二人でさせて頂いておりますから、それが終わってから親教会に参拝のおかげを頂きたい。ついては、今日から行きもどり歩かせて頂きたいからというお願いをさせて頂いた。まぁこれは、私の考えでいうなら、そんな事よりまちっと他に修行はありゃせんかとこう云いたい思いでしたけれど、神様から只今申しますような事を頂くんでよ。どんなに考えてもやっぱ二時間半位かかりますよね。行って帰って来るまでに、歩いてでございますから。そんな事よりお家でまちっとその何か他の修行でもさせて頂いた方が、まぁそろばんには合いますようですけれどね。人間のそろばんというか。やっぱりそこには、光昭が光昭なりに修行させて頂こうというその気持ちが、二時間や三時間かかっても普通から見たら、ほんとに不自然であったり道理に合わないようであるけれども、やはりあえてお届けさせて頂いた。今日から歩いてお参りをさせて頂いてますがね、そういう信心の中からですね、私がいつも云う道理に合うというのは、人間の考えではない。神様の心に合う信心。いわゆる天地の道理に合う信心。という事は、そのように人間的に考えるともちっと何とか考え方がないかというようにしか見えない。けれどもやはりお互いが常識的なだけではなくて、やはりある場合には非常識に見える、人間から見ると。けどもその非常識ではなくて、それが超常識だと私が申しますように、だからこそ私は、超の付くようなおかげの元がそうして出来ていくんだと。人間の知恵、力にはとても思いもつかん、考えもつかん程しのおかげに進展していく、私は修行の根本のところの信心姿勢というのは、道理に合うという事がいかにもね、人間の考えで合点がいく、常識的といったような事と間違えてはならないという事。どこまで天地の道理に合うたというのである。お道の信心は。ですからこそ天地が自由になりなさる程しのおかげになったり、それこそ超が付きますような、いわゆる大型的なおかげとでも申しましょうかね。そういうおかげの土台がそのような信心からしか生まれてこないと思うですね。光昭の善導寺参拝が、そりゃあ成る程、自転車で参りゃあなおよか、単車どん買うてもらえばまだ時間が短縮される。けれども歩いてお参りをしたい。行きもどりを歩いて行って帰って来たいと、こう云うのですからやはりその事が神様にそのままお受け頂ける為には、やはり私もあえて私の人情を捨てて、お取次させて頂く他はないという事になるですね。お互いの信心の上にもそこを押し割って考えますと、いよいよ金光様の信心の道理に合う信心とは、という事が分かってくるように思いますね。どうぞ。